マネジドケアというのは、医療サービスに関連した様々な新奇性を持っているため、本家本元の米国にあっても定義が固まらずにいるが、社会的に最も影響力があるのが、HMOと呼ばれるマネジドケア医療保険業で、これは要するに医療保険と医療提供をセットにしてサービスする事業のことである。
そして、HMOの会社が自由市場の原則の中でお互いにサービスを競い合っている。
わが国にはさまざまな法律上の制限もあってマネジドケア医療保険会社は実質的に存在しない。
そのため、マネジドケアを包括的に理解するのが容易ではないが、先にも述べたとおり、わが国がまもなく直面する少子超高齢化社会の医療保険運営に備えて、マネジドケアの意味合いを研究することは急がねばならないものと思う。
マネジドケアのパラダイムの検討は、今、先進国に限らず、中進国や途上国でも盛んである。
それほどに米国生まれのマネジドケアには普遍性があると言うことでもある。
しかし、後に詳述するように、マネジドケアはダイナミックな変化を続けている。
他の国々でもマネジドケアの重要性に気づいたのはここ数年のことで、その研究報告がやっと最近になって現れている。
しかし、それらは既に各々の国の特性に適合させて検討されているため、マネジドケアの原型から変容し始めている。
その点を考えて、本書では原型の米国マネジドケアを意識して分析している。
ここで何故、米国マネジドケアに普遍性が生じたのかについてもふれておきたい。
すなわち、米国のシステムがなぜ世界のスタンダードになってしまうのかについてである。
米国を解説する言葉はこれまでも多々あったと思う。
たとえば、移民国家や人種のるつぼ、あるいは米国独立戦争時の中心であったWASP支配の国といったたぐいである。
しかし、第二次大戦後も半世紀以上にわたり、また今も世界中から移民を受け入れ続ける一方で、二大政党である民主、共和の両党の共通の価値観である自由個人主義を維持するための努力を続けている結果、現実の米国は先のような標語では実態をよく表現できなくなっている。
代わってよく当てはまると思われるのが、小説家の故司馬遼太郎氏が講演の中で述べた感想だと聞く、「アメリカは従来型の土地の住民が築いた国ではなくて、人工的な国だ」という表現である。
この国では確かにかつては欧米型の価値観を基礎に敷いていたとはいえ、今ではアジア、アフリカなど他の地域の、他の人種の価値観も拒絶されることがない。
だから、それら様々な特徴を持つすべての生活者をひとつの国のなかで共生させる国家運営の術として、基本倫理は自由個人主義を堅持する一方で、誰にでもわかるような柔軟で単純明解な「論理」が模索され続けている。
そのような論理的なシステム構築の努力が、ますます人工的な国の様相を強めているようである。
そして、米国のシステムは欧米系にも、アジア・アフリカ系にも通用する要素を持たせているので、世界のスタンダードになれる要素を多分に持つことになる。
だからこそ、米国のマネジドケアについても国家や制度を越えた社会生活への普遍的な適合部分を持ったものと思われる。
本書ではそのユニバーサルスタンダードの可能性を多分に持つマネジドケアについて、その出現の経緯と現状、そして将来の可能性について検分したうえでその意義を明らかにし、いま進められているわが国の医療改革の意味合いを検討してみたい。
まずは人工国家、米国の医療システムをわが国との対比で簡単に整理しておこう。
現在の米国の医療は世界最高の水準にあるといわれるが、自由競争の原則のもとでコスト、すなわち医療費の高騰もすさまじいものとなっている。
一九九五年の米国の総医療費は約一兆ドル、つまり一〇〇兆円を優に超える。
一方、同年の日本の国民医療費は約二七兆円であるから、日米の人口比を考慮しても、米国の総医療費は日本の倍以上かかっていることになる。
もっとも、米国が発表する総医療費というのは、正しくは医療費支出総額であり、日本とは呼称も違えば、統計項目も違っている。
日本の国民医療費には自由診療による患者の医療支出分や、町の薬局で販売される店頭薬、そして正常妊娠や出産の費用、予防接種などの費用は含まれていない。
先にも説明したように、これらは健康保険の財政管理の枠外だからである。
米国の医療費支出総額にはそれらの費用を含むほかに、さらに眼鏡やコンタクトレンズ、そしてまた一部の医学研究費用や病院建築費なども含まれている。
そのため、本来同列に比較できるものではないが、それぞれの国の医療政策担当者たちが参考にする統計であることには間違いない。
学術的な精密性はともかくとして、ここで知っておくべきことは、米国では「自由競争の原則のもとで世界最高水準の医療」の提供が行われている事実とともに、「医療システムの経営の研究」が半世紀以上も前から着手されている事実である。
これを見ると、仲介の保険者が、金銭の支払い側と医療サービスの提供側との間に入って医療費を支払う、つまり、医療サービスの需給とファイナンスのバランスを管理する役目があることが分かる。
また、病院の本来のあり方、つまり、入院のための施設であること、それゆえ、その管理は医師が担当する必然性がないことが見えてくる。
さらに、医師の役割は独立しており、医療内容の決定と医療資源の配分を行うということで、そのポジションの重要性は一目瞭然である。
じつのところ、先進国の中で病院の経営管理のトップを実質上医師に限定しているのは日本だけである。
日本の社会がそれを善しとするならば、何も問題視する必要はない。
そのときには医療施設の管理職に就く医師は医療経営を正規に修得する必要があろう。
なぜならば、病院業は約二〇兆円という巨大な産業規模となっており、その事業主を経営の素人で済ませるにはあまりにも社会のリスクが大きすぎるからである。
さて、この医療供給機能の五分担を念頭に置きながら、米国の医療事情をみてみよう。
米国では、医師の養成は、一般的に四年制の学部を出た後に、さらに四年制の医学大学院に入って専門教育を受けることになる。
この医学大学院の入学選抜を受けるに当たっては、学部時代に指定された科目の単位を取得せねばならないので、普通は学部二年生のときに進路を決め、全国共通の医学大学院試験を受験する準備をする。
医学大学院を卒業すると最初の一年はインターンとして指定された科を回り、次に二、三年間を病院のレジデントで過ごす。
そして、心臓外科や脳外科といった分野を目指す場合には、それからさらに二年ほど専門医としての訓練を受けるのが一般的なパターンである。
こうして医学を修得したのち、いよいよ医師免許を取得することになるが、州ごとに独自の免許を要求されるため、自分が働こうとする州を決めた上で医師免許試験に挑戦することになる。
つい最近まで医師は訓練期間を終えたら自分でクリニックを持ち、患者を診る、つまり、開業をするのがほぼ一〇〇パーセントであった。
ただし、ここでいうクリニックというのは日本の診療所とは全く異なり、あえていえば、秘書を一人おいた小さな個人事務所を想像していただきたい。
そこでは、患者との医療相談をすることが目的であり、もちろん、薬を調剤することもない。
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